世の中にはいろいろな価値観があるけれど、それはどれも正しいとか正しくないとかじゃなくて、”あう”のか、”あわない”のかの違いでしかないと思う。

”あう・あわない” はその人によるのかもしれないし、そのときの環境によるのかもしれないし、ただただほんの少しの数秒のずれなのかもしれない。

ただ、何かに関して、ひとつの物事に対して、いろんな見方ができるところはあって、それがその場にたいしてあうのか、あわないのかという結果に落ち着いているのだとおもう。

そして、この「あう・あわない」の違いがごくささやかなものであって、たまたまそうなってしまっただけだと信じているひとは、往々に人に優しくなれるように思う。自分があったものだからといって、他人にあうとは限らない。ある時あったからといって、違う時にもあるとは限らない。

そんなふうに、世の中にはさまざまなタイミングがあって、それらがちょうどまたどこかと同じようにかみ合うことなんてないくらい、繊細に動いているのだとおもう。

わたしは、むかし「人間なんて、大抵一緒だ」とおもっていた。

確かに個性などはあるけれど、そんなの微々たるもののような気がしてきた。ほんのすこし、家庭環境がちがったから。ほんのすこし違うことに費やした時間が長かったから。基本的には、個人というより環境のせいな部分が大きいと思っていた。

ひとの能力に関してもそうだ。よく「優秀だ」なんて言ったりするけれど、ひとり個人の優秀さなんて、意外とちょっとしたもので覆されてしまうものだったり、それは環境がつくりだしたものなんじゃないかって思っていた。

要は、ひと個人が全て違うのはわかっているけれども、地球の大きな歴史とかで見てしまえば、「まあ誤差だよな」と思えてしまうくらいのものなのだ。まあ、そんなことを言い出したら、わたしたちが存在していること自体、ちいさな誤差みたいなものなのだろうけれど。

そんなふうに思っていたけれど、やっぱり、ひとには「向き・不向き」があるだということを、少しづつ思うようになってきた。やっぱり、簡単にできることもあれば、なにがどうして逆立ちをしてもできないこともある。

そのながで、いちばんに悲しいことというのは、その向き不向きを理解できないことなんじゃないだろうか。どうしても、なにか違う思考が邪魔をして、「全然向いていないこと」にふと、取り込まれていたりする。それは、なにかの見栄だったりするかもしれないし、くだらないプライドだったりするかもしれないし、気の弱い意志だったりするかもしれない。

そんなものたちに巻き込まれて、本来あるべき場所に入れないことほど、残念なことはないのじゃないのだろうか。そして、周りのひとは、そんなこと考えもしなかったりするのだ。

「きっとここでダメだったから、他でもだめだろう」そんなふうに。

ただ、世の中にはいろんな多種多様な価値観があって、多種多様な生き方があって、世界のどこかには、きっとそのひとのそのものに「あう」ものがあるんだろうなって、思う。

もしかしたら、それを探し出せるのは、おじいちゃんやおばあちゃんになったときかもしれないし、もしかしたら、探し出すこともできずに、タイムリミットがきてしまうかもしれない。そんな恐怖と立ち向かってでも、「これだ」というものをみつけて、それに邁進するような、そんな生き方をしたいよね。

ということを、ふと考えました。

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